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ホワイトロリータ

僕はルマンド派です

【もういくつ寝ると】つまらないサッカーとは【ワールドカップ】

サッカー 雑記

さて、この記事で一体どれだけの敵を作ることになるのか、非常に楽しみではあります(笑)

サッカーはよく面白い、つまらない、あるいは生産性のあるなしを問われることがあります。
「勝てばそれでいいんじゃないの」と言われることもありますが、それだけは断じてありえません。プロサッカーはサービス業です。もちろん、スポンサー収入等も重要な収入源ですが、プロサッカーという存在を成り立たせているのはひとえにファンの存在なのです。
ごく当たり前のこの事実ですが、これはつまり「試合を観る人がいなければプロサッカーは成り立たない」ということです。
面白い試合かどうかは、集客力に繋がってきます。つまり、それはチームの経営が成り立つためにも重要なことなのです。

人気選手を獲得することも巡り巡れば同じこと。
人気の高い選手とは「面白い試合を提供してくれる可能性が高い選手」とほぼイコールです。

では、面白い試合とはいったい何なのか。
面白いという言い方以外にも、サッカー界にとってプラスになるならない等の言い回しもあります。
それぞれの違いは何なのか。
サッカー倫理における永遠のテーマともいえるこの議題、もちろん私にも自分なりの価値観があります。
それを書き記しつつ、プロサッカーとは何か、という抽象的な部分まで遠回しに伝えていくことにします。


偉大なもの、美しいものを、進んで喜んで崇めることは、私の天性である。そして、この素質を、非常にすぐれたものに接することによって、日々刻々養い育てて行くのは、あらゆる感情の中でこの上なく幸福なものである。

アンチフットボールという単語を耳にする機会は多いと思います。
基本的にはリアクション型の守備的サッカーを指して、そう言われることが多いかと思われます。
某リーガの某司令塔がそのようなニュアンスの発言をしばしばすることで有名ですね。

逆に攻撃的サッカーがアンチフットボールと叫ばれることは、私の経験上ではありません。
何故、守備的サッカーだけがそう評価されるのか。
それはサッカーのルール自体と関わりがあると思っています。

サッカーとは相手よりもゴールを多く決めた方が勝ち。
簡単に言えばこれだけです。
そこに更に細かいルールと複雑な戦術、選手の技術やメンタルが重なり合って、より高度化されるわけですが、勝敗を分かつ要素は結局のところ「ゴール」だけです。
判定も採点もありません。PK戦を含め、サッカーとはいかにゴールを奪うかが求められるスポーツなのです。
つまり、ざっくばらんな言い方をすれば、攻撃とは点を奪うためのプレー、守備とは点を奪われないためのプレー。相手より点を多く奪うためにより必要なのは、守備ではなく攻撃なのです。
守備的なサッカーは使い古された表現をすると「ゴールの臭いがしない」ことがしばしばあります。それがつまり「退屈」と直結するのです。
サッカーというスポーツで人々が一番、熱狂するのはゴールシーンなのです。
ニュース番組でゴールシーンだけ取り上げられるのは、試合に最も深く関わる部分であり、かつ最も面白い局面だからです。
ですから、「点を取りにいかないサッカー」はアンチフットボールとして祭り上げられるのです。

しかし、点を取りにいかないサッカーと守備的なサッカーは違います。
もっと言えば守備にも「点を取るために守る」と「点を取られないために守る」の2通りが存在します。
前者はペップ・グアルディオラのチームのショートカウンターがいい例といえます。
守った先にゴールが見えているか、ここがフットボールか否かを分ける分岐点といえるでしょう。

芸術そのものは本来気高い。それゆえ、芸術家は俗なものを恐れない。否、それどころか、芸術家が俗なものを取り上げると、それは立ち所に上品にされる。こうしてわれわれは最大の芸術家たちが大胆にその至上権を行使しているのを見る。

また、サッカーがエンターテイメントの性質を持っていることも多分に影響があるでしょう。
特にタレント豊富なビッグクラブなら、あらゆる戦術を実現するだけの力があります。
そこでそうしたタレントたちが自陣に引きこもって一発のチャンスを狙うようなサッカーをした場合、期待外れだと思うファンが多いと思います。
それは引いて守るサッカーは「実力で劣るチームでもできる」からです。というより、真っ向勝負を挑んでも勝てないから「引いて守るしか選択肢がない」と言うべきでしょうか。
ある程度の実力があれば、多少の戦力差を考慮しても真っ向から立ち向かう(逆にどうあがいても勝つ見込みがない場合、大量失点も覚悟で攻める、というパターンもあります)、ということもありますが、そうでない場合は大抵、1-0を狙うサッカーをするしかないのです。
つまり、格下のチームがやるようなサッカーをビッグクラブがやるという事態が起きた場合、それは真っ向勝負から逃げた弱腰の姿勢と非難されてしまってもおかしくはないのです。

言い換えれば、格上相手に真っ向勝負をして勝てる見込みがあるか、ということは、自身のレベルが上がっているかどうか、ということにも繋がります。
2010年南アフリカワールドカップの岡田ジャパンを私が一切評価していない理由も実はそこにあります。
岡田ジャパンは真っ向勝負を捨てたことで、自分たちのレベルが上がっていない、世界と闘えるレベルにはない、ということを暗に示してしまったのです。
「引いて守らなければ結果を残せない」ということですからね。
引いて守ることが日本の真っ向勝負の形であれば受け入れることもできますが、日本代表が目指しているサッカーはそこにはないというのは誰の目から見ても明らかです。
日本のサッカー(日本のサッカーとは、というテーマも長い議題になりそうですが、協会のお偉いさんなどの考え方では、とりあえずは攻撃的サッカーで間違いはないようです)を捨てた時点で真っ向勝負を捨てたも同然。
もっとも、そうまでして大会に挑んで持ち帰ってきた結果が「ベスト16」というのは私個人からすれば「そこまでやってそれかよ…」という心境でしたが。
せっかくなら準々決勝でスペインと最後の最後まで死力を尽くして闘う姿くらいは見せてほしかったものです。
ちなみにPK失敗はどうとも思っていません。PK戦というバクチに持ち込んだ時点で記録上は引き分け、つまり勝ちではないのですから。本来は遅くとも120分のうちに決着をつけるべきでした。

もちろん、ドン引きプレーだろうと選手は常に全力でしょうし、それがファンを魅了することは間違いないでしょう。
しかし、ファンをさらに高い次元へ連れて行くには、根性の部分だけではなく、常に上を意識しているか、しているとして個人とチームのクオリティが伴っているか、ということも大切なのです。

果たして、ザッケローニJAPANは日本サッカーを更なる高みへ導けるのか…

人間と、人間をとりかこむ色々な条件とから、直接生ずる誤りはゆるすべく、往々尊敬に値する。しかし、誤りの後を追う者はそんなに公平に遇されるわけには行かない。口真似して言われた真理はもう魅力を失っている。口真似して言われた誤りは味もそっけもなく、笑うべきものである。自己の誤りから脱することは困難である。往々にして偉大な精神や才能の人においてさえ不可能である。他人の誤りを受け入れて、それを固執する人は、働きの乏しいことを示す。誤りの本尊の頑固さには腹が立つが、誤りの模倣者の強情さは不愉快にしゃくにさわる。

※ちなみに、小字はすべてゲーテの言葉です